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執筆者の写真脇村 拓嗣

湯加減




「お湯加減どうですか」

聞いたことがあるようで、聞いたことはなかった。

子どもの頃からすべてのインフラが揃い、電化製品に囲まれて育った。

風呂を「薪で焚く」という行為を知ってはいるものの、使うことは一生ない。古文漢文を習った時の“あの感覚”そのものだった。




なぜ薪なのか

25歳の春。気づけば島で生活を始めていた。

給湯の選択肢としてはガスや灯油、電気もある。島で現存する民家にはガスか灯油のボイラーがついていることが多い。崩れた家の隙間から薪ボイラーが覗いていることもあるが、近年では不便な薪は使われていなかったのだろう。


そんな中、あえて薪ボイラーを設置するという選択肢をとった。

それは島に目を向けたとき、手が付けられなくなった道、畑、雑地などが草木で荒れ果てていたからだ。ただ単に伐採や草刈りをするのではなくエネルギー資源として使う。それらの行為は自然循環の中に生活を組み込むものであり、土地を適切に管理していく上で必要不可欠な行為だと私は思う。

現に全盛期の写真では島の木々はかなり少ない。日頃から燃料として薪を使っていたのだろう。






薪という不便さを楽しむ

偶然のたまものではあるが、薪で風呂を沸かすというのは予想外に面白く、達成感を得られる行為だった。季節、薪の種類、風呂に入るタイミング、燃え残っている薪の量さえも計算しなければ、心地よく風呂に入ることはできない。

しかし一筋縄ではいかないからこそ、面白い。熱くなりすぎたら水を入れる。ぬるすぎて凍える。そんな失敗自体も体験としては楽しく、機器に管理された現代にはない面白さだ。


正直なところ毎日となると不満もある。厳冬期は沸かすのに3時間はかかる。薪の使用量も多いことから、日々薪集めに追われる。本土で知人と夕食でも食べようものなら、その後の3時間がチラついて気が気でない。だが、自然循環の中で生きているという実感が得られる私にとって大切な時間でもある。





最後に

「お湯加減どうですか」

スイッチ一つでシャワーの出る環境では、生まれようのないフレーズだ。

核家族世帯、単身世帯が増える前のほんのちょっと昔。家族や仲間同士が協力して、何もかもを自分たちでこなしていた時代。その”何もかも”の中の一つが風呂だったのではないかと勝手に想像している。


そんな何の意味もないことを考え、情緒に浸りながら今夜も風呂に浸かる。

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